どうしても自分の生活とコロンビア人の生活を比較してしまうのだが、仕事に追われる毎日を送っていると笑うことすら忘れてしまっている。あまり気にしていないが、2・3日まったく笑わないこともよくあるのではないかと思う。気持ちにゆとりがないのだろう。僕と同じように急き立てられるような毎日を送っている方も多いと思う。
そんな僕たち日本人をコロンビアの人たちは「お金持ちで何でも買えて、旅行にも行けていいね」と羨ましがっている。確かにそうかもしれない。これはコロンビアの人たちに対して大変失礼な言い方になるかもしれないが、僕から言わせるとそんな楽しい毎日を送っていて、暮らしてゆける彼女たちを羨ましく感じでしまうのである。
結局のところ僕を含めた多くの日本人は自分のゆとりや気持ちの余裕を売って(犠牲にして)、お金をもらっているにすぎないのではないか。それでいてコロンビアを含め多くの外国の人々から羨望の目で見られていることの、なんて妙でいやな気分だろうか。それがいやなら仕事をやめて違うことをすればよいのだが、最近ではそれをする勇気すらうせてしまっていることが悲しい。
「百年の孤独(ガルシア・マルケス著)」について
コロンビアの国民的作家と言えば1982年にノーベル文学賞を受賞したガルシア・マルケスをあげることができる。彼の出身はカルタヘナに程近いアラカタカである。僕はカルタヘナ滞在中にアラカタカへ行こうと思っていたが、いつでも行けるという思いからついに行きそびれてしまった。
彼の代表作に「百年の孤独」という小説がある。僕はこれから中南米を旅行しようと思っている人にぜひとも読んでもらいたい小説だと思っている。この小説は中南米を手っ取り早く理解するうえで教科書のようなもので、これを読むのと読まないのとでは中南米に対する理解度にかなりの差が出ると思うからである。この本が南米諸国で発売になったとき、「ホットドックのよう飛ぶようにに売れた」といわれている。なぜこの小説が中南米の人々にこんなに支持されたのか。読者はこの小説を2度3度と読み重ねていくと、この疑問から開放されることになる。
小説の中身をここでこと細かく書いてしまうと、これから読む人の楽しみを奪うことになってしてしまうので、ここでは簡単に紹介したいと思う。カリブ海沿岸にある架空の村マコンド。もともとはたまにやってくるサーカス団の公演くらいしか娯楽がないような村に多国籍企業であるバナナ会社が進出してくる。やがて村は繁栄して町になり人々の暮らしもよくなっていくが、当然その弊害も表面化してくる。
労働者を虐殺する軍隊、政府への反乱を重ねる大佐、やがて混乱に陥ったマコンドはこの世界から消滅してしまう。このマコンドの栄枯盛衰をプエンディーア一族の目を通して、ダイナミックに描ききっている。簡単に書いてしまうとこういうことなのだが、文章は実に難解な部分も多く、また非現実的・超自然的でありえない出来事がたんたんと起こるため、初めてこの小説を読み終えた人の中には単なる歴史物語しか感じない人もいるだろう。実はこの小説の中にはたくさんのトリックがかくされているのである。
実はガルシア・マルケスは多くの挿話や寓話をこの小説の中に組み込み、コロンビアの歴史(他の中南米のほとんどの国々の歴史にもあてはまってしまう)をさまざまな形で比喩・暗喩しているのである。「魔術的リアリズム」と呼ばれる彼のこの手法は、よくインドのサルマン・ラシュディ(代表作:「悪魔の詩」、「真夜中の子供達」、「ジャガーの微笑」など)の手法と比較される。
つまり「バナナ会社=ユナイテドフルーツ社 外国からの搾取の象徴」、「キリスト教=土着信仰を排除する、外から入ってきた宗教」、「労働者への抑圧=アメリカ帝国主義の傀儡政権が行ってきたこと」、「大佐の反乱=反政府ゲリラ」といった感じで読み替えていくと、この小説のスケールの大きなことに気づいてしまう。
つまりここに登場する架空都市マコンドは、暗に悩めるコロンビア又は他の中南米の国自体をさしているのである。幸いコロンビアはまだこの世から消滅していないが、ガルシア・マルケスはコロンビアの行く末までも予言して、この小説を通じてそうならないように軌道修正を促しているのである。こうして読みすすめてゆくと、小説に登場するさまざまな非現実的・超自然的な出来事が、実は現実のもののように思えてくる。これらの現象はガルシア・マルケス自身又は他の中南米の人々が、かって実際に日常生活の中で体験した出来事の一部なのかもしれない。
さて冒頭の「なぜこの小説が中南米の人々にこんなに支持されたのか」という疑問であるが、おそらくこの小説の登場人物に自分や自分の周りにいる人々を重ね合わせたかったのだと思う。そして社会の不公平や不条理に翻弄されている自分たちの代弁者として、登場人物を捉えていたのだろうと思う。
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