しかしながらアメリカは、同じ時期に起こった旧ユーゴスラビアのボスニア紛争には、セルビア人勢力のジェノサイドを理由に積極的に介入した。それも今度は国連の反対を押し切って、NATO軍と称して。アフリカの出来事は放って置いても、ヨーロッパの出来事はそうはいかないようである。
僕がルワンダを訪問したのは、大虐殺事件から2年後のことである。もともと僕はルワンダに行く予定はなかったが、コンゴ(旧ザイール)のブカブにいた時、現地の国連の職員の方から内戦勃発が近いから今すぐコンゴから出国するようにと忠告され、半強制的にルワンダに避難させられたのだった。国連職員の方には今のコンゴより、ルワンダの方が安全だという認識があったのだ。
事実、ルワンダに入国してみると、コンゴの時に比べて兵士の表情が随分穏かなことに気づいた。それどころか僕に冗談を言ってくる兵士までいた。全く緊迫感がなく、僕はいい意味で肩透かしを食らってしまった。その数日後、僕がいたコンゴ東部で内戦が勃発し、内戦はその後、周辺国も巻き込んだアフリカ大戦と呼ばれる泥沼の内戦に発展したのだった。
僕は国境から乗り合いバスにて、山道を一路首都キガリに向かった。途中ルワンダ兵による検問もあったが、別に緊迫した様子もなく、難なく僕はキガリに到着したのだった。
キガリの町はまるで山の中腹にへばりつくかのように建設されていた。町は活気に溢れ、人々の表情も明るかった。スーツを着たビジネスマン風の人も目立ち、都市機能はほぼ正常に戻っているように思えた。